人間って、死んでまで、めんどくさい。
生きてるあいだはああでもないこうでもないと悩み
死んだあとは死んだで「成仏できてる?」「幽霊になってない?」「あの世から見てる?」と、
残されたほうも当人も、ずっと考えることをやめられない。
ピラミッドもミイラも、お盆の墓参りも、
つきつめれば全部「死んだ人と、どう付き合うか」に悩んだ末の産物。
合理的に考えれば
「死んだら終わりでいいじゃん」「墓も仏壇もサブスク制で済ませればいいじゃん」で切り捨てられるはずなのに。
なぜか人間は、死者のためにカネも時間も情緒も惜しまない。
むしろ、「死者と一緒に生きること」こそ文明のど真ん中。
どの国もどの時代も「めんどくささ」をエンジンにして社会を回してきた。
そして現代、その「めんどくささ」は、ついにスマホの中まで到達した。
■関連書籍
死んだらどうなるのか?――死生観をめぐる6つの哲学/伊佐敷隆弘 (著)
「墓」はスマホの中に――デジタル墓地の時代
現代人の「死者との付き合い方」も、どんどん進化(あるいは迷走?)している。
最近は「デジタル墓地」なるものが、静かに社会に根付いてきた。
要するに、クラウド上にお墓を作って、スマホでお参りする。
「お墓参り行く暇ない?ならアプリでポチッと手を合わせよう」ってノリだ。
この時代、お線香は焚かず、合掌はタップ。
命日には「推しの配信」と同じ感覚で、「オンライン法要」に家族全員がZoom参加。
お盆も彼岸も、ついでにスマホで済ませてしまう。
もはや「死者までDX(デジタルトランスフォーメーション)」。
でも、じゃあご先祖はWi-Fi環境ないと成仏できないのか?
Googleアカウントのパスワードがわからないまま
永遠の二段階認証地獄で迷ってたらどうするのか?
想像すればするほど、デジタル墓は未来というより「新しい人間の迷走」感たっぷりだ。
それでも結局のところは「形が変わっても、死者を忘れない」っていう
やっぱり人間のめんどくさくて愛おしい部分がよく出てる。
人類最古の埋葬と「死者を送る」文化
じゃあ、そもそも「死者と生きる」はどこから始まったのか?
人類が「死者をそのまま放っておけなかった」のはただのビビりや迷信だけが理由じゃない。
10万年前の墓にも、花粉や副葬品。ただ埋めるだけじゃ終わらない手間が積み重なってる。
合理的に考えれば、腐敗や感染症を防ぐため、動物避けのため…
たしかに実用的な理由もある。
でも、それだけなら「花を添える」「綺麗に並べる」「装飾品を一緒に埋める」なんて面倒なことを
わざわざやる意味はない。
にもかかわらず、人間はそこに特別な意味を込めたがる生き物だ。
「どこかで見てるかもしれない」「あの人が安らかでいてほしい」と願う――
自分でも説明できない気持ちを、儀式や形に託してきた。
これ、実は世界共通の現象。
時代も場所も文化も問わず、
人間だけはなぜか「死者を手厚く葬る」という謎の共通認識を持っている。
「死者は特別」「魂は消えない」「いつかまた会える」
そんな観念が、気づけば地球のあちこちで勝手に進化してきた。
理屈じゃない、人類のややこしい愛嬌
で、結局のところ「死者をどう扱うか」は
その社会がどれだけ本気で「人間らしさ」と向き合ってきたかのバロメーターでもある。
合理主義と神聖さ、その両方を全部背負い込んできたのが人類。
「いまさら墓なんて」「死んだら終わり」って合理的に考えたいくせに
どこかで「やっぱり見送ってやらなきゃ」「寂しそう」「かわいそう」と思う自分がいる。
このややこしさこそ、人間の愛嬌じゃないか?
もはや文明そのものが「死者と一緒に生きる」ことに、ズブズブとハマってしまったのだと思う。
そのバグのせいで、今日も世界中で墓が建ち、仏壇が守られ、幽霊が語り継がれる。
本音を言えば「死者なんて気にせず、今を生きる」くらいのほうが楽なのに、
人間はどこまでいっても「めんどくささ」を捨てきれない。
それでも“死者”は、人類にとって一番身近な他人
誰もが一度は「自分の死後」を妄想するし
「誰かの死」に直面してはじめて人生の重さを知る。
「死者と生きる」って、ある意味、人類の最大の矛盾でありつつ、でも一番人間らしい愛嬌だと思う。
亡くなったご先祖に「死んでも見てるぞ」って監視されるプレッシャー半端ないし
パンツ一丁で冷蔵庫開けるときも「見られてるのかな…?」ってふと妄想する。
ご先祖様、見てますか?
今日も世界は「めんどくさい人間」だらけでやってます。
…苦笑いしながら見守ってるなら
まあ、それも悪くないかな。
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