2006年公開の映画『プラダを着た悪魔』。
「バリキャリ女子の憧れ」「オシャレなファッション映画」として語られることが多い『プラダを着た悪魔』。
でも、あなたは“あの世界”に本当に憧れますか?
アン・ハサウェイ演じるジャーナリスト志望の主人公が、メリル・ストリープ扮するカリスマ編集長ミランダの元で地獄のようなアシスタント業務に挑む、ファッション業界を舞台にした痛快キャリアドラマ。
……なんだけどさ。なんか、モヤっとしない?
ミランダは超かっこいいし、アンディも最初のダサさから垢抜けていく感じは気持ちいい。
「女性の成功ストーリー」としてよくできてる。見てる間は引き込まれるし面白い。
あの頃は「おしゃれな映画」くらいにしか思ってなかったかもしれない。
でも最近になって観返してちょっと冷静になると、こう思う。
焦げ団子これ、ほんとに憧れるべき世界なのか?
だって、ミランダは全部持ってるように見えて、全然幸せそうじゃない。
アンディも結果的にあの世界を捨ててるし。
なのに、なんで世間では「プラダ=勝者の物語」みたいに語られてるんだろう?
団子的に一番気になったのはそこ。
あの映画って、実は「みんなが憧れる“上の世界”って、ほんとに行く価値あるのか?」って問いかけてる気がする。
というわけで今回は、『プラダを着た悪魔』から見えてくる「オシャレで綺麗で都会的な上の世界への”憧れと違和感”」について、団子的に考察していく。


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『プラダを着た悪魔』のミランダは本当に“勝者”なのか?


── ステータス、名声、仕事の支配力。でも、その代償は?
『プラダを着た悪魔』の世界観でまず印象的なのは、「ミランダのようになること」=成功 という図式が、あまりにも強く描かれていること。
一流ファッション誌の編集長。ブランドに顔パス。
すべての部下が震え上がり、彼女が現れるだけで職場の空気が変わる。
それは、間違いなく「カッコいい」。
特にファッションに憧れを持つ層から見れば、ミランダの世界は選ばれし者のフィールドであり、地に足をつけて生きる一般人とは別次元の人生。
でも、その別次元って、実はめちゃくちゃ過酷じゃね?
ミランダは完璧に見えるけど、プライベートは崩壊寸前。
夫との関係も破綻し、子育ても他人任せ。本当の友達もいそうにない。
「キャリアと引き換えに、すべてを犠牲にしている」感じが、静かに漂っている。
しかも彼女自身、それを承知のうえでなお「引き返さない」と決めてるように見える。



それって、ほんとに「勝者」なのか?
いや、確かに社会的には勝者だ。
でも、幸せの尺度が「自分基準じゃなく、社会の期待基準」になってないか?
アンディの最終的な選択を見ていると、ミランダのような“頂点”の人間ですら、どこかで虚しさや限界を感じていることがわかる。
つまり、この映画が描いてるのは、
「憧れの世界の内側に入って初めて、“代償の大きさ”に気づく物語」
なんじゃないかと。
表面はキラキラしていても、その裏では何かが確実に壊れている。
でもそれに気づかないまま、「華やかで一流=正解」と思い込んでしまう視聴者も多い。
ミランダの孤独や、疲れ切った表情にちゃんと目を向けた人が、どれだけいただろう?
『プラダを来た悪魔』アンディの決断に見る“本当の勝ち方”とは?
若い頃って、「派手な世界にいる=勝ち組」みたいな感覚がある。
華やかな業界、目立つ交友関係、洗練された見た目。
学生時代も、スクールカーストは見た目やノリの強さで決まりがちだし、そういう価値観のまま社会に出ると、芸能界、ファッションや広告業界のような表舞台こそが「上の世界」だと錯覚してしまう。
だからこそ、ミランダが支配するあのファッション帝国は、ある種の「理想郷」に見える。
でも、年齢を重ねていくと気づく。
ミランダはすごいけど、孤独だ。アンディはシャネルに身を包み、たくさんのブランド品に囲まれ垢抜けたけど、恋人との関係も悪くなり友達とも疎遠になり、だんだん疲れていく。
そこにあるのは、成功と引き換えに手放さなきゃいけないプライベートや価値観。



……けど、そこに幸せはなかった。
そんな中でアンディが選んだのは、「そこから降りる」という選択肢だった。
それは、「あの世界についていけなかった」のではなく、「自分が本当にいたい場所は、そこじゃなかった」と気づいたからだ。
周囲がどう見るかではなく、自分が納得できる生き方を選んだ。
それは社会的な勝ち負けじゃ測れない、内面的な勝利だったと団子的には思う。
つまりこの映画は、「勝者とは何か?」を問うてるんじゃないか?
仕事も、ステータスも、人間関係も、全部を手に入れたように見えて何も幸せそうじゃない人と、周りから見たら逃げたように見えるけど、笑って自分の道を歩く人。
アンディは、ミランダの世界を否定したんじゃない。自分の世界を選んだだけだ。
それこそがこの映画の最大のメッセージだと思う。
なぜ『プラダを着た悪魔』は今も“憧れの映画”なのか?


『プラダを着た悪魔』の中で描かれるのは、ファッション界の頂点。
誰もが知る一流誌「ランウェイ」の編集部。そこに君臨するカリスマ編集長ミランダ・プリーストリー。
彼女の一言が業界を動かし、彼女の前では全員が気を遣い、頭を下げる。まさに「全てを仕切る女」。
家族も顧みず仕事に生きる彼女は、なぜかかっこよさとして視聴者には届いてしまう。
現実では耐えられないようなプレッシャーも、映画の中では美しく映る。
――いや、美しく“演出されている”のだ。
洗練された服、完璧なオフィス、美しい街並み。
ミランダの鋭すぎる言葉遣い、アンディの垢抜けていく変化、テンポのいい展開。
そこには確かに「ファンタジーとしての美しさ」がある。
そして多くの人が、この作品を憧れとして消費してきた。
けれども、ここで団子的な視点をひとつ加えたい。
実は、団子もかつてはそういう「華やかで洗練された世界」に憧れていたことがある。
都会のど真ん中で、大企業に勤めていた。綺麗なビル、洗練された服装、名刺に載った社名の重み。全部持ってた。



……けど、そこに“幸せ”はなかった。
心がすり減るような人間関係と、誰かの期待に応え続けるだけの日々。
ふと、「これ、誰の人生だっけ?」と空を見上げたことがある。
だからこそ、団子的にはこう思うんだ。
この映画が描いているのは、ただの「憧れ」じゃない。
憧れの先にある現実をも、ちゃんと見せてくれている。
それでもなお、「かっこいい」と思えてしまう世界。



それこそが、この映画がファンタジーであり続ける理由なんだと思う。
「欲しかったもの」を手に入れても、幸せになれるとは限らない
たとえば——都会のタワマンで、綺麗な服着て、イケてる仲間に囲まれて、忙しく働いて、いい店でランチして、Xやインスタでオシャレな写真をあげる。
誰がどう見ても「充実してる」し、「理想的な生活」に見える。
でも、夜になって家に帰ると、何かがすごく空っぽだったりする。
「自分は“他人の理想”を生きてたけど、本当にこれが“私の理想”だったっけ?」
SNSではいいねがつくし、周囲にもすごいって言われるけど、その評価と自分の気持ちのズレが、どんどん大きくなっていく。
やがて、朝起きるのもだるくなってくる。服を選ぶ気も起きない。
あんなに憧れてたはずの「キラキラした生活」に、自分が追いついていけなくなってる。
そうやって、評価と“自分”が乖離していく。
アンディが「もうあの世界には戻らない」と決めたのは、きっとこの感覚に気づいたからなんじゃないか。
社会的なステータスと“自分の声”がズレてることに、どこかで気づいてしまったのだと思う。
団子的まとめ|「本当に進みたい道」って、どこにある?
『プラダを着た悪魔』のラストで、アンディが選んだのは、あの華やかなファッションの世界でも、ミランダのポジションでもなかった。
彼女は、自分がもともと目指していた「ジャーナリスト」という道に戻っていく。
ミランダに認められ、華やかなキャリアの入り口に立ちながら、あえて“そっちじゃない道”を選んだ。
それってつまり、「本当に自分が進みたい道」を、ちゃんと見極めたってことだと思う。
団子的に言えば、この映画の本当のテーマは、
“何を手に入れるか”じゃなく、“どんな自分でいたいか”。
他人が羨む場所に立っても、自分が納得してなければ意味がない。
逆に言えば、地味でも泥臭くても、自分の心が納得する道を選べたらそれが、いちばんカッコいい「勝ち方」なんじゃないかって。
だからアンディは、誰よりも「自分の人生」を歩き始めた“勝者”なんだよ。
この映画は華やかな世界に憧れを持たせる構図に見えるけど、実は「どんな自分でいたいか?」っていう華やかな世界に対するアンチテーゼ的な映画だと思う。
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