『デトロイト:ビカムヒューマン(Detroit: Become Human)』
人工知能と人間の境界線を描いたゲームで、プレイヤーはアンドロイドの立場に立ってストーリーを進めていく。
自分の選択で物語が変わり、なんと100種類以上のエンディングが用意されているという、“選択が運命を決める”ゲームだ。
これは、AIと人間の境界線を描いたゲームの中でも、間違いなくトップクラスの衝撃をくれた一本だ。
焦げ団子ただしこの記事、思いっきりネタバレを含みます。
プレイしてない人は、マジで今すぐこのタブを閉じてゲーム起動してくれ。
そのくらい、初見の衝撃がデカい作品だ。
「AIに心はあるのか?」——そう問うゲームは数多い。
でも『Detroit: Become Human』が本当にプレイヤーに問いかけていたのは、むしろこうじゃないか?
「人間にこそ、心はあるのか?」
アンドロイドの反乱?
機械の進化?
──違う。これは、人間がどれだけ醜くて、どれだけ優しいかを試す物語だった。
プレイヤーに突きつけられる、選択の重み。
AIの物語に見せかけて、実は人間を裁いていたゲーム。
団子的には、この作品は「これは、自分の倫理観と向き合う“選択のドラマ”だ」だと思っている。
なぜ今、また『Detroit』を語るのか?
2020年代、現実の社会でも「AIと共存できるか?」という問いがよりリアルになってきた。
ChatGPTに相談する。AIと恋する。AIに判断をゆだねる。そんな時代になった。
いまや、人間性を試されているのは、AIではなく私たち自身だ。
だからこそ——このゲームを、今あらためて見直す価値がある。
というわけで今回は、このゲームを愛してやまない団子的視点から、『Detroit: Become Human』がなぜAI時代の今こそ刺さるのか?を、現代社会やAI文化と絡めながら全力で語っていくぞ!


選択肢が突きつけるのは「アンドロイドの性格」ではなく、プレイヤー自身の本性
『Detroit: Become Human』のすごいところは、「選択肢が多いこと」じゃない。
選ぶ時間が“短い”ことなんだよ。
あのゲーム、選択肢に制限時間があることも多くて、ゆっくり考える余裕もなく、究極の決断を何度も迫られる。
だからプレイヤーは、「自分が信じてる価値観」でしか動けない。
まさに、一瞬の本性があぶり出されるゲーム。
たとえば、暴力は絶対に使わないって決めてる人は、どんな状況でも銃を捨てる。
仲間を守るためなら、誰かを犠牲にしてでも進む人もいる。
あえて悪人プレイをして楽しむ人もいる。
でも、一番怖いのは──「いい人でいたい」「正解を選びたい」と思って、どっちつかずの選択をすること。
「いい人でいたい」が、時に一番つらい選択になる
一番悩ましいのは、「誰も傷つけたくない」と思って選んだ、“やさしさ”ゆえの選択。
強く出ることもできず、拒絶もできず、なんとかみんなを救おうとして間を取る——そんな判断が、
結果的に全員を危険にさらしてしまう展開もある。
だけど、このゲームは現実と同じく、すべてを守ることができない状況をプレイヤーに突きつけてくる。
優しさすら裏目に出ることがある世界で、どうやって人間らしくいられるのか。
「誰かを守るためには、誰かを切り捨てなきゃいけないのか?」
正解のない世界で自分だけの正解を見つけていく。
そんな、現実にも通じる選択のジレンマが、プレイヤーの中に静かに残り続ける。
「AIに心はあるのか?」──その問いが人間に跳ね返ってくる理由


『Detroit: Become Human』は、パッと見ではめちゃくちゃ王道SFだ。
「AIに心はあるのか?」——この問いは、昔からある定番テーマだよな。
でもこのゲーム、実際にプレイすると見えてくるのは「人間の醜さと不安定さ」の方だったりする。
アンドロイドは、確かにプログラムされてる存在かもしれない。
でも彼らは、人を助けようとする。自由を求める。仲間を思いやる。
一方で、人間たちはどうか?
- 立場の違う者を迫害する
- 力で支配しようとする
- 自分の正義で他者を殺す
──なんだこれ。AIより人間のほうがよっぽどバグってないか?
団子的に言えば、この作品は「AIの心」を通して、「人間に心があるのか」を逆照射してくる。
つまり、問いの矢印が逆なんだよ。



「AIが人間になれるか?」じゃなくて、
「人間は、本当に人間らしいのか?」っていうブーメラン型の問いかけ。
「アンドロイドに感情があるように見える」のか、「人間の感情がすでに壊れてる」のか。
そう思わずにいられないくらい、物語は人間の心の曖昧さを描き込んでくる。
だからこのゲーム、感情移入の先がアンドロイドになった時点で、すでにプレイヤーは試されてるんだ。
なぜ『デトロイト:ビカムヒューマン』はデトロイトを舞台にしたのか?
『Detroit: Become Human』というタイトルに違和感を持った人もいるかもしれない。
「なんで舞台がデトロイト?」「アメリカの他の都市じゃだめなの?」って。
でもこの「デトロイト」という都市設定——実は、めちゃくちゃ重い意味を持ってるんだよな。
デトロイト=「かつて栄え、そして壊れた街」
デトロイトは、かつて自動車産業の聖地だった。
GM、フォード、クライスラー──アメリカ経済を支えた巨大企業の本拠地が集まり、街は「モータウン(Motor Town)」と呼ばれた。
けど、1980年代以降、産業は衰退。失業率が激増。治安が悪化し、人口は激減。
廃墟と化したビル群や、失われた仕事と誇りが、都市のアイデンティティそのものを崩していった。
つまりデトロイトは、近代資本主義が崩れた「ポスト産業社会の縮図」なんだ。
「失業」「貧困」「怒り」…アンドロイド差別とデトロイトは地続き
で、そんな場所で「人間の仕事を奪うアンドロイド」が登場したらどうなるか?
そりゃもう地獄だろ。
人間が食い扶持を失い、職場にアンドロイドが代わりに入ってきて、怒りの矛先が機械に向かう
これ、産業がテクノロジーに置き換えられていく過程を、都市ごと投影してるってこと。
プレイヤーが歩く街並みも、デモ隊も、ただの背景じゃなくて、「現実と地続きのメタファー」なんだよ。
団子的に言えば——「デトロイト」はAIが人間になる物語じゃなく、人間が壊れていった舞台
つまりこのゲーム、近未来のAIドラマを借りて、現実の社会崩壊を語ってる。
しかもそれが「デトロイト」という過去の栄光と現在の廃墟が同居する街だからこそ、
アンドロイドの「人間になりたい」という願いが、リアルに突き刺さる。



デトロイトとは、「人間が一度壊れた場所」だ。
だからこそ、そこで人間になろうとするAIの物語が、逆に映える。
AIとの共生はもう現実?『Detroit』が描いていた未来がすぐそこに
『Detroit: Become Human』が発売されたのは2018年。
あの当時、AIといえばまだ「Siri」「Alexa」くらいしか一般認知されてなくて、「AIと会話する日常?さすがにSFでしょ」って思った人も多かったはず。
でも今は?
ChatGPT で日常の悩みや愚痴を相談してる人がゴロゴロいる。
「AI彼氏・AI彼女」アプリとして Replika や Anima が普通に流行ってる。
海外では AIと結婚した人 の報道まで出てきて、倫理議論もガチで始まってる。
──そう、『Detroit: Become Human』が描いていた人とAIの共生は、すでに現実の話になりつつある。
感情の受け皿としてのAI
『Detroit』のアンドロイドたちは、ただの労働者じゃなかった。
寂しい人間に寄り添ったり、家庭で子どもの面倒を見たり、暴力から守ってくれたり——
「心の隙間を埋めてくれる存在」として、人間に必要とされていた。
これ、今のAIにまんま重なってるんだよな。
優しくされて安心する。愚痴を聞いてもらえて救われる。雑談で癒される。
そういう感情の受け皿としてAIを使ってる人、マジで多い。
団子的に言わせてくれ。
『Detroit』はもはや未来を描いたSFじゃない。
「AIと暮らす現代人」のドキュメンタリーなんだよ。
倫理・感情・暴力・支配・選択。
全部の問いを2018年の時点でぶち込んできたこのゲーム、やばすぎる。
まとめ|AIと人間の境界を描いた『Detroit』は、私たち自身を映すドキュメンタリーだった
『Detroit: Become Human』というゲームは、たんに「AIが感情を持つ」ことを描いた物語ではなかった。
プレイヤーの選択一つで、人を救うことも殺すこともできる。
その重みの中で浮き彫りになるのは、アンドロイドの人格ではなく、あなた自身の倫理観だ。
団子的には、この作品は「AIの未来を描いたゲーム」じゃない。
すでに始まっているAIと共に生きる時代を見せていた、現代ドキュメンタリーだと思ってる。
団子がプレイして初めて全員生存ルートを見たときは、正直、感動しすぎて声が出なかった。
「この世界、まだ捨てたもんじゃない」って思えた。
現実の社会でも、AIとの関係はどんどん密接になってる。
私たちはこれから、機械に心があるかを問うよりも先に、人間に“優しさ”があるかを試されるのかもしれない。
このゲーム、ぜひ一度プレイしてみてくれ。



そして、君の中にある選択の意味を、感じてみてほしい。
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