修学旅行で一度は行く原爆ドーム。
でも、あれを見ながら昔から思っていた。
原爆が落とされる前、あれって何の建物だったんだ?
当たり前だけど、原爆ドームは最初から「原爆のための建物」だったわけじゃない。
今の原爆ドームには、慰霊、戦争、平和──そういうイメージが強くまとわりついている。
でもそれは、すべて後から与えられた意味だ。
では、原爆が落とされる前、あの建物は何のために建てられ、どんな場所だったのか。
実はそこには、いまの原爆ドームのイメージとは少しズレた、意外な役割と文化があった。
焦げ団子今回は、原爆ドームの「元の正体」とその歴史、そしてその建物で起こっていた文化について静かに振り返ってみる。


原爆ドームの正式名称は「広島県産業奨励館」|元の建物の役割と目的


原爆ドームの正式名称は、広島県産業奨励館。
名前を見れば分かる通り、当たり前だが慰霊や戦争とは一切関係がない、広島の産業を盛り上げるための施設だった。
1915年(大正4年)に完成したこの建物は、「広島県立商品陳列所」と名付けられ、当時の広島県が「これからの発展」を外に向けて見せるための拠点だった。
その後、役割の拡大に伴って「広島県産業奨励館」と改称された。
そこでは県内で作られた物産や工芸品を展示し、新しい技術や製品を紹介し、見本市や展示会を開いて、「広島にはこんな産業があります」とアピールしていた。


たとえば、広島県内で生産された織物や陶器、木工品、金属製品。
酒や食品加工品といった地元の特産品。
さらに、当時としてはまだ珍しかった機械を使った製造工程や、近代的な加工技術の紹介も行われていた。
展示されていたのは、完成品そのものだけでなく、「どうやって作られているのか」「これからはこういう技術の時代ですよ」という、未来を感じさせる産業の姿だった。
いわば、当時の広島にとっての産業博覧会の常設会場のような存在だ。



原爆ドームと聞いて今思い浮かぶイメージとは、まったく違う役割を担っていた建物だったんだな。
設計したのは外国人建築家だった|原爆ドームを設計したヤン・レッツェルとは


この建物を設計したのは、日本人ではなかった。
広島県産業奨励館を設計したのは、チェコ出身の建築家、ヤン・レッツェル。
なぜ、わざわざ外国人建築家だったのか。
理由はシンプルで、当時の日本が「本気で西洋化・近代化をやろうとしていた」からだ。
大正期の日本にとって、西洋建築は「おしゃれ」や「流行」ではなく、国として生き残るための戦略だった。
最新の技術、最新のデザイン、そして「世界に通用する見た目」。
その象徴として、外国人建築家の手による建物が選ばれた。
ヤン・レツルは、当時すでに日本各地で公共建築を手がけていた人物で、「近代国家・日本」を形にする役割を担っていた建築家の一人だった。
中でも象徴的なのが、産業奨励館の中央に据えられたドーム構造だ。
あの丸いドームは、防御や実用のためのものじゃない。完全に見せるための建築だった。
近代性、先進性、国際性。
「広島は、世界とつながっている」というメッセージを、建物そのものが語っていた。
つまりこの建物は、地方都市の施設でありながら、最初から国際的な視線を意識して作られていた。



原爆ドームは、最初から世界に向けて建てられた建物だったんだ。
原爆ドームでバームクーヘンが誕生した|日本初のバームクーヘンと産業奨励館


1919年(大正8年)、広島県産業奨励館で行われていた展示会で、日本で初めてバームクーヘンが焼かれ、販売された。
菓子を焼いたのは、ドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム。
あの今でも有名なバームクーヘンだ。
彼はドイツで菓子作りを学び、第一次世界大戦の影響で日本に滞在していた人物だ。
当時の日本では、バームクーヘンはほとんど知られていなかった。
少なくとも、正式な製法で焼かれ、一般に販売された例は記録上は確認されていない。
産業奨励館の展示会でユーハイムが焼いたバームクーヘンは、ドイツの伝統的な製法に基づいたものだったとされている。
木の芯に生地を何層も重ねて焼き上げる独特の工程は、当時の日本人にとってかなり珍しいものだった。
この展示会をきっかけに、バームクーヘンは「海外の菓子」「新しい技術を使った洋菓子」として注目されるようになる。



100年以上も前に来た異国のお菓子が今も愛されてるってすごいな!
カール・ユーハイムは「捕虜」だった
少し余談だが、さっき名前を出したカール・ユーハイムは、単なる在日ドイツ人職人ではない。
第一次世界大戦中、彼はドイツ人捕虜として日本に送られていた。
当時、日本は連合国側としてドイツと敵対しており、青島(現在の中国・青島)でドイツ軍が降伏した際、多くのドイツ兵・民間人が日本に移送された。
ユーハイムもその一人だった。
ただし、日本の捕虜政策は少し特殊だった日本は当時、「捕虜を比較的自由に扱う」方針をとっていた。
強制労働一辺倒ではなく、
- 技術を持つ者は技術を活かす
- 芸術・音楽・工芸の活動を認める
- 展示や演奏、制作を許可する
という対応が実際に行われていた。
その流れで、菓子職人だったユーハイムは「菓子を作ること」を認められていた。
結果として、ドイツ人捕虜によって、日本で初めて本格的なバームクーヘンが焼かれ、販売されたという少し不思議な出来事が起きた。
なぜ広島に広島県産業奨励館が建てられたのか|原爆ドームと近代都市・軍都広島


広島に産業奨励館が建てられたのは、偶然じゃない。
当時の広島は、東京や大阪ほど巨大ではないが、明確に「地方の中心都市」として機能していた。
瀬戸内海に面し、港があり、鉄道も通っている。
西日本の中では人と物が集まりやすく、外から来た人に何かを見せる場所としてちょうどいい立地だった。
だから建築は西洋風で、展示される内容も新しい技術や海外の文化が中心になる。
広島県が「これからの発展」を語るためのショーケースとして、この街は選ばれている。
また当時の広島は、軍の拠点でもあったが、それだけの街ではなかった。
軍が置かれることでインフラが整い、人が集まり、結果として近代的な都市機能が育っていた。
展示会を開き、外国人を招き、最新の技術を見せる。
そうしたことが現実的に可能な都市だった。
後から見ると「なぜ広島だったのか??」と思いたくなるが、当時の感覚ではむしろ自然な選択だった。



産業奨励館が建てられた場所には「未来を見せる都市」という役割が、最初から与えられていたんだよ。
原爆の日、建物は意味を変えた|なぜ原爆ドームだけが残ったのか
1945年8月6日、原子爆弾が広島に投下された。
広島県産業奨励館は、爆心地からおよそ160メートルという至近距離にあった。
それまでこの建物が担ってきた役割・産業を紹介し、未来を見せる場所としての意味は、この瞬間に完全に失われる。
にもかかわらず、建物の骨組みは残った。
理由は構造的なものだった。
爆風は真上に近い角度から建物を襲い、横方向への力が比較的抑えられたこと、また、鉄骨と鉄筋コンクリートを組み合わせた当時としては珍しい構造だったことが大きい。
内部は焼き尽くされ、人は助からなかった。
それでも外形だけが残ったことで、この建物は「使われる建築」から「出来事を示す痕跡」へと役割を変えることになる。
戦後、この建物を残すか、壊すかをめぐって議論が起きた。
危険だから撤去すべきだという意見もあれば、この姿を後世に伝えるべきだという声もあった。
最終的に建物は保存され、やがて「原爆ドーム」と呼ばれるようになる。
未来のために建てられた建物が、結果として、過去を語る建物になった。
それは設計された役割ではなく、時代によって与えられた役割だった。
まとめ|原爆ドームは、最初から悲劇の象徴だったわけじゃない
原爆ドームは、最初から戦争や被害を背負うために建てられた建物ではなかった。
もともとは、広島の産業や技術、これからの発展を外に向けて見せるための場所だった。
海外の建築家が設計し、新しい文化や技術が持ち込まれ、展示会では甘いお菓子まで紹介されていた。
それが歴史の偶然と時代の流れの中で、まったく別の意味を背負うことになった。
建物そのものは変わらなくても、意味だけが変わってしまった。



正直、戦争が起きる前の産業奨励館だった頃の姿も見てみたかったなと思う。


