「この瞬間も、ご先祖様がどっかで見てるかも」って夜ふと家の中で思ったこと、一度はあるだろ?
自分はある。パンツ一丁で冷蔵庫開けるとき「見られてるのかな…?」ってふと妄想することあるし
お盆だけじゃなく誰かの命日が近づいて「死」を連想した夜とか、ふと脳裏をよぎるんだよ。
人間って、死んでまでめんどくさい。
生きてるあいだはああでもないこうでもないと悩み、死んだあとは死んだで
「成仏できてる?」
「幽霊になってない?」
「あの世から見てる?」と、残されたほうも当人も、ずっと考えることをやめられない。
死者と付き合ってきた歴史
ピラミッドもミイラも、お盆の墓参りも、つきつめれば全部「死んだ人と、どう付き合うか」に悩んだ末の産物。
合理的に考えれば
「死んだら終わりでいいじゃん」
「墓も仏壇もサブスク制で済ませればいいじゃん」で切り捨てられるはずなのに。
なぜか人間は、死者のためにカネも時間も情緒も惜しまない。
むしろ「死者と一緒に生きること」こそ文明のど真ん中。どの国もどの時代も「めんどくささ」をエンジンにして社会を回してきた。
そして現代、その「めんどくささ」は、ついにスマホの中まで到達した。
歴史は勝者が書く──でも、ほんとはそうじゃないよな?
教科書には載らない視点から、「焦げ目のついた歴史の裏側」をまとめました。
あやふやな知識、ここで一回焼き直していこう。
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「墓」はスマホの中に――デジタル墓地の時代
現代人の「死者との付き合い方」も、どんどん進化(あるいは迷走?)している。最近は「デジタル墓地」なるものが、静かに社会に根付いてきた。
要するに、クラウド上にお墓を作って、スマホでお参りする。「お墓参り行く暇ない?ならアプリでポチッと手を合わせよう」ってノリだ。
この時代、お線香は焚かず、合掌はタップ。命日には「推しの配信」と同じ感覚で、「オンライン法要」に家族全員がZoom参加。お盆も彼岸も、ついでにスマホで済ませてしまう。
もはや「死者までDX(デジタルトランスフォーメーション)」。たとえば、亡くなった親族のLINEがずっと未読のまま残ってて消すに消せない。
そんなデジタル供養が当たり前になった現代。SNSで#供養垢が立ってたり、推しの命日にX(旧Twitter)でスペース開いたり。
これも全部、「死者と生きる」現代バージョンだ。
Googleアカウントのパスワードを忘れてうろたえるご先祖?!
幽霊もどんどんハイテクになる時代。
じゃあご先祖はWi-Fi環境ないと成仏できないのか?
Googleアカウントのパスワードがわからないまま、永遠の二段階認証地獄で迷ってたらどうするのか?
想像すればするほど、デジタル墓やらデジタル供養は未来というより「新しい人間の迷走」感たっぷりだ。
それでも形は変わっても結局のところは「形が変わっても、死者を忘れない」っていう、やっぱり人間のめんどくさくて愛おしい部分がよく出てる。
人類最古の埋葬と「死者を送る」文化
じゃあ、そもそも「死者と生きる」はどこから始まったのか?
人類が「死者をそのまま放っておけなかった」のはただのビビりや迷信だけが理由じゃない。
10万年前の墓にも、花粉や副葬品。ただ埋めるだけじゃ終わらない手間が積み重なってる。
合理的に考えれば、腐敗や感染症を防ぐため、動物避けのため…
たしかに実用的な理由もある。でも、それだけなら「花を添える」「綺麗に並べる」「装飾品を一緒に埋める」なんて面倒なことをわざわざやる意味はない。
にもかかわらず、人間はそこに特別な意味を込めたがる生き物だ。
「どこかで見てるかもしれない」「あの人が安らかでいてほしい」と願う――
自分でも説明できない気持ちを、儀式や形に託してきた。
死んでもどこかにいる?
これ、実は世界共通の現象。
時代も場所も文化も問わず、人間だけはなぜか「死者を手厚く葬る」という謎の共通認識を持っている。
「死者は特別」
「魂は消えない」
「いつかまた会える」
そんな観念が、気づけば地球のあちこちで勝手に進化してきた。
理屈じゃない、人類のややこしい愛嬌
で、結局のところ「死者をどう扱うか」は、その社会がどれだけ本気で「人間らしさ」と向き合ってきたかのバロメーターでもある。
合理主義と神聖さ、その両方を全部背負い込んできたのが人類。「いまさら墓なんて」「死んだら終わり」って合理的に考えたいくせに、どこかで
「やっぱり見送ってやらなきゃ」
「寂しそう」
「かわいそう」
と思う自分がいる。このややこしさこそ、人間の愛嬌じゃないか?
物理的にいなくなっても死者とともに生きる
もはや文明そのものが「死者と一緒に生きる」ことにズブズブとハマってしまったのだと思う。
そのバグのせいで、今日も世界中で墓が建ち、仏壇が守られ、幽霊が語り継がれる。
本音を言えば「死者なんて気にせず、今を生きる」くらいのほうが楽なのに、人間はどこまでいっても「めんどくささ」を捨てきれない。
それでも「死者」は、人類にとって一番身近な他人
誰もが一度は「自分の死後」を妄想するし「誰かの死」に直面してはじめて人生の重さを知る。
「死者と生きる」ってある意味、人類の最大の矛盾でありつつ、でも一番人間らしい愛嬌だと思う。
亡くなったご先祖に「死んでも見てるぞ」って監視されるプレッシャー半端ないし
パン一丁で冷蔵庫開けて牛乳飲むときも「死んだばあちゃんに見られてるのかな…?」ってふと妄想するのも「死者の存在」が当たり前に根付いているから。
ご先祖様、見てますか?
今日も世界は「めんどくさい人間」だらけでやってます。
…苦笑いしながら見守ってるなら、まあ、それも悪くないかな。
歴史って、読み解けば読み解くほど面白い。
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