関西人にとって、遊園地といえば「みさき公園」だった。
イルカショー、プール、観覧車、動物園――なんでも詰め込まれたあの場所は、南海電鉄が運営する“海辺の夢”だった。
自分も何度も訪れ、家族でもデートでも来たことがある。
でも2020年、みさき公園は静かに閉園した。
大きな話題にはならなかったけれど、子ども時代をそこで過ごした人間にとっては、忘れられない場所だったはずだ。
今回は、「みさき公園とは何だったのか」を改めて振り返りながら、なぜ消えたのか、跡地は今どうなっているのかを本気で追ってみたい。

関東人にとってのとしまえんみたいなものよ。
みさき公園とは何だったのか?





大阪府最南端の夢、それが「みさき公園」だった。
開園は1957年(昭和32年)。
運営していたのは私鉄の南海電鉄。
場所は大阪府泉南郡岬町――南海本線の終点「みさき公園駅」の目の前という立地で、まさに電鉄会社直営のレジャー施設だった。
山と海に挟まれた傾斜地に建てられ、園内はかなり広く、動物園、遊園地、プール、イルカショー、水族館などが詰め込まれていた。
昭和の子供たちにとっては遠足や家族旅行の定番。
関西圏の子どもなら一度は通ったと言っても過言じゃない。
※アクセス:
• 最寄駅:南海本線「みさき公園駅」
• 天王寺・難波から1時間程度で到着できる立地。
ピーク時には年間100万人以上の来園者を記録。
当時の関西の家族レジャー三種の神器といえば「ひらかたパーク」「みさき公園」「エキスポランド(当時)」で、中でもみさき公園は、動物×遊園地×プールの全部盛り系として独自の立ち位置を築いていた。
イルカショーやライオン・ゾウ・キリンなどの本格的な動物展示がある一方で、昔ながらの観覧車やメリーゴーランド、夏場はスライダー付きプールと、レトロで手作り感のある体験型遊園地だった。



テーマ性や統一感よりも、
とりあえずいろいろ詰め込みましたという勢いがあった。
みさき公園|プールとイルカと遠足――みんなの思い出装置


みさき公園がただの遊園地ではなかった最大の理由。
それは、「記憶に染みついている」という点に尽きる。
昭和から平成、令和にかけて、関西の子どもたちが一度は体験したみさき公園の記憶は、数えきれないほどある。
流れるプールは夏の儀式
真夏になると、みさき公園の流れるプールはまさに戦場だった。
浮き輪がぶつかり合い、ビート板が飛び交い、監視員の声が響く。
プールゾーンにはウォータースライダーもあり、暑さも忘れて水に飛び込むのが恒例だった。
イルカショーとメガロドンの歯
みさき公園といえば、イルカショーも有名だった。
円形の水槽でくるくるとジャンプするイルカ。客席の歓声。
そして、そのすぐそばに置かれていたのが、なぜかメガロドンの巨大な歯の模型。
記憶の中では、そのそばに記念メダルの機械もあった。
100円を入れて、ガチャンと音が鳴って出てきたメダル。
「みさき公園」と刻印されていて未だに持っている。
怖くないジェットコースター、だけど急流滑りはガチ
遊園地ゾーンにはちゃんとしたジェットコースターも設置されていた。
でも絶叫系というよりは安心して何回も乗れるタイプで、子どもでもリピートできるやさしいコースターだった。
しかし、唯一「これは無理」と感じたのが、急流すべり。
あの傾斜、あの落差、そして落ちたあとの水しぶき――
レトロ施設特有の安全性の不安もあってか、心の底から怖かった記憶がある。
そして幼稚園のとき、好きだった男の子と手を繋いでミニ機関車に乗ったあのときの風景は、いまだに色褪せていない。
父と乗ったサイクルモノレール
園内を空中から見渡せるアトラクションのひとつ、サイクルモノレール。
2人乗りのゴンドラを自転車のようにこぐと、ゆっくり空を移動できる。
…はずだった。
でも父は、かつてサイクリングが趣味だったせいか、全力でこぎまくり、空中でゴンドラが異常なスピードを出すという展開に。
幼き日の団子「こわい!!やめて!!!」
父「おぉー!!もっといける!!」



…そんな親子の光景も、いまや幻。
リフトで向かう偽物の灯台


みさき公園には灯台風の展望台があった。
そこへは、まるでスキー場のようなリフト(ロープウェー)で向かうのだが――
下を見れば、なぜか靴が落ちている。
「ちゃんと持ち主に返してるのか?」という謎とともに、登った先には、“本物じゃない灯台”と、大阪湾を一望する絶景が広がっていた。
その風景は、今でもふっと思い出すことがある。
みさき公園は、派手ではなかった。
ユニバーサルスタジオジャパンのような大規模なショーもなければ、最新技術もなかった。
でも、体の中に残ってるのは、たぶんこっちの方。
あのプールの水のにおい、イルカの水しぶき、父の全力ペダル、落ちていた靴、好きだった人の手のぬくもり――
それ全部が、今となっては思い出という名の遊園地になっている。
みさき公園|なぜ閉園したのか?


あれだけの思い出を抱えた場所なのに、みさき公園はもう存在しない。
2020年3月31日――
みさき公園は63年の歴史に幕を下ろした。
理由はひとつではない。でも、どれも避けようのない現実だった。
きっかけは南海電鉄の経営判断
みさき公園は、開園当初から南海電鉄が直接運営してきた。
電鉄系の遊園地としては珍しく、「沿線のにぎわい創出」という意味も込められていた。
だが近年、来園者の減少・施設の老朽化・運営コスト増加が重なり、南海は本業への集中のために、遊園地事業から撤退する方針を打ち出す。
「老朽化した施設をこのまま維持するのは難しい」
それが公式発表での立場だった。
実は2年ほど前から譲渡先を探していた
2018年頃から、南海電鉄はみさき公園の譲渡・再建の道を探っていた。
でも、最終的に「継続は困難」とされ、閉園が決定。
跡地は大阪府に一部売却され、動物関連のエリアは別団体に引き継がれる形に(後述)。
少子化とレジャーの多様化も直撃した
昭和・平成時代には「遠足」「家族レジャー」の定番だったが、令和のいま、レジャーの中心は都市型・映え・ブランド施設へシフト。
USJやショッピングモールに押され、郊外のレトロ遊園地は時代から取り残された。
みさき公園の最大の武器だったなんでもあるという魅力も、現代では「中途半端」「古い」「アクセスが不便」とネガティブに取られがちだった。



子どもの数も減り、遠足の行き先も変わっていく。
そして、みさき公園は選ばれない場所になっていった。
みさき公園|記憶の中にだけ存在する遊園地へ
最後の営業日には多くの来園者が詰めかけた。
かつて通った家族、卒園遠足の写真を持って訪れた人たち。
でも、それは一時のものだった。静かに、淡々と、遊園地は閉じられた。
派手なセレモニーもなく、特番もなく、SNSのトレンドにもならず。
あの灯台から見た景色も、イルカの声も、流れるプールの波も、もうどこにもない。



思い出は今も胸の中にある。
でも施設は、物理的にこの世から消えてしまった。
跡地は今どうなっているのか?


遊園地が閉園したあと、その場所はどうなるのか。
「壊されて終わり」じゃない。
みさき公園の跡地には、かすかに残されたものと、完全に失われたものがある。
跡地は「大阪府立の自然公園」へと引き継がれた
閉園後、南海電鉄が一部の土地を大阪府に無償譲渡。
現在は「大阪府みさき公園動物関連施設」という名前で、かつての一部エリアが動物保護・教育施設として継続利用されている。
2022年には「大阪府立大学(現・大阪公立大学)」が中心となって管理する獣医学教育研究センターが開設。
動物たちの飼育・医療・教育に使われている。
イルカ・動物たちはどうなったのか?
閉園にともない、園内で飼育されていたイルカたちは、名古屋港水族館などの水族館や海洋施設に移送された。
すべての個体が受け入れられたわけではなく、高齢だった個体はそのまま余生を送ったケースもあると言われている。
ライオン、キリン、カバなどの大型動物たちも全国の動物園に分散して移動。
引き取り先の多くは公表されていないけど、移送は段階的に行われ、飼育員たちも必要に応じて一部が動物と共に転職していったそうだ。
なお、ペンギンやモルモットなどの小動物系は、学校や教育施設、保護団体などへ引き渡されたという記録もある。



まあどこかで元気にしてるなら安心だ。
灯台は――今もあるが、封鎖されている
園内の高台にあった灯台風の展望台は、現在も物理的には存在している。
本物の灯台ではなく、観光用に作られた模擬展望施設だが、そこからの大阪湾の眺めは、昔から人気があった。
灯台に行くために使われていたリフト(スキー場のような構造)は、現在撤去済み。
空中を移動するあのスキー場みたいなやつに乗って、ちょっとビビりながら登ったあの体験も、今ではできない。
灯台も現在は立ち入り禁止エリアに指定され、近づくことはできない。
荒れたまま放置されている様子が、一部ファンや地元の記録ブログなどに残されている。



あのリフト、下見ると絶対靴落ちてたな。
なんで毎回誰か片方落としてんの。ほんま謎すぎて好きだったわ。
遊園地の跡は、ほぼ更地に
閉園後、みさき公園の遊園地エリアは完全に封鎖された。
ジェットコースター、急流すべり、サイクルモノレール――全部撤去済み。
売店や休憩所の建物も解体され、今は柵と雑草と管理用の建物だけが残っている。
かつて子どもたちが行列を作っていた遊具の影は、今はどこにもない。
遊園地エリアは一般公開されておらず、柵で囲われて立ち入り不可。
一部の施設跡は解体されて更地となり、管理用の建物やフェンスが残るだけになっている。
ただ、Googleマップの航空写真で見ると、プールの外枠や観覧車の基礎跡がまだうっすら確認できる。
「ここに何かあった」という記憶の輪郭だけは、まだ残ってる。
現在このエリアの大部分は、大阪府立大学(現・大阪公立大学)獣医学教育研究センターの関連施設として使用されており、一般人が気軽に立ち入ることはできない。



それ聞くと、ただの廃墟じゃないんだってちょっと救われるんよな。
焦げ団子的まとめ ――跡地にはもう何もないけど、思い出はちゃんと残ってる
今はもう更地になってるけど、あの場所にはたしかに、流れるプールがあって、イルカショーがあって、サイクルモノレールや灯台があって、子どもの頃の思い出がいろんな形で詰まってた。
好きな男の子とミニ機関車に乗ったことも、父親が張り切ってモノレールをこぎすぎて怖かったことも、今でもちゃんと覚えてる。
たぶん、自分だけじゃない。
みさき公園は、たくさんの人にとって家族や友達との思い出の場所だったはずだ。
遠足で行った人、夏にプールで遊んだ人、イルカショーで拍手した人。
一度でも訪れたことがあるなら、ふとした瞬間に「ああ、懐かしいな」って思い出すことがあるかもしれない。



みさき公園は消えても、
思い出してくれる人がいる限り、どこかで続いてる。