観光地のパフェは買うのに、なぜハーゲンダッツは高く感じるのか?――“体験”の値段で脳がバグる現象

観光地で出された映えを意識されたパフェの画像
焦げ団子

旅先で謎のパフェが1200円…。

しかも、内容はやたらと背の高いグラスにソフトクリームが突っ込んであって、周りにはフルーツやよく分からんお菓子、オシャレなミントの葉っぱ(いらない)と底にはコーンフレークみたいなのが敷き詰められているだけ。

それなのに、「旅の思い出だし!」とテンションMAXで注文。

「写真撮ろ~」とか言いながら一口食べて、「うん、まあ…普通?」とか思いながらも全部たいらげて、「いやー贅沢したな!」と満足して店を出る。

ところがどっこい、翌日スーパーに寄ってハーゲンダッツ(350円)を手に取ると「高ッ!」
この一言が本能的に口から飛び出す。

いやいやいや、待てよと。昨日のパフェ、ダッツ何個分だよ。あれに比べりゃ、ダッツなんて幸福の圧縮パックみたいなもんなのに。

なぜ人間は観光地パフェには寛容で、家ダッツには財布の紐を全力で締めにかかるのか。

焦げ団子

今回はこの謎の価格バイアスについて、焦げ団子的目線で皮肉と共にぶった斬っていく。


目次

「パフェ現象」と「ダッツ現象」

アイス比べ 豪華なパフェと市販のアイスの画像
豪華なパフェと市販のアイス

そもそも、観光地のパフェ=イベント化された食べ物である。

旅行先で「せっかくだし!」と頼んでる時点で、もう冷静なコスパ感覚は終了している。どんなに中身がしょぼくても「記念」とか「思い出補正」で脳がバグる。

一方、ハーゲンダッツは「日常の贅沢」という地獄ポジション。家の冷凍庫で350円のカップアイス…

「た、高い…今月ピンチだし…」なぜか脳内で冷静な主婦が暴れ出す。

観光地でパフェ食う時は「これも体験代」って思えるくせに、スーパーでダッツ買う時は「原材料高騰」「円安」「貯金」まで考え始める。

同じアイス成分なのに、この差は何なのか。

非日常=財布がゆるむ
日常=財布が鬼と化す

イベント化すればどんなボッタクリ価格でもOK、でも日常の贅沢には妙に厳しくなる、我々のこの矛盾。

次の章では、このアホみたいな行動を、行動経済学的にガチで分解していく。

——たぶんそこまで大層な理由はないけどな!

行動経済学的にぶった斬る

さて、「なんでダッツには厳しく、観光地パフェには財布ゆるゆるなのか」

ここでちょっと真面目っぽく行動経済学を持ち出してみる。(※正直、ほとんどの人は「なんとなく」で動いてるんだけど、理屈つけた方が記事っぽく見えるので


フレーミング効果:「同じ金額でも見え方が変わる病」

観光地パフェ→「思い出に払う1200円」
家ダッツ→「カップアイスに払う350円」

この「枠組みの違い(フレーミング)」で価値がまるごとすり替わる。

パフェは旅行の体験に金を払った気分になるので、高くても「ま、いっか!」と許せる。

ダッツはただのアイスにしか見えないから、「こんなもんに350円はねえわ」と冷酷ジャッジ。

例えるなら、「花火大会で缶ビール500円は平気なのに、近所のスーパーで同じビールは高いって文句言う現象」。
あれと同じ。


アンカリング効果:「普段価格と無駄に比較する癖」

ダッツの隣に並ぶ謎の自社ブランドアイス(130円)と比べると、どうしても「高ッ…」ってなる。完全に安いアイスを基準にしちゃってるせいで、ダッツの高級感が「ぼったくり」に見えてくる。

でもパフェのときはなぜか「パフェ=高いもの」という思い込みが先にあるから、1200円でも「パフェってこんなもんだろ」で済ませる。

…いや、ほんとは冷静に考えたら「ただのアイス盛り」だろってツッコみたくなるけど、旅行中の脳みそは都合よくバグってるから仕方ない。


サンクコスト効果:「せっかく来たんだし」心理

旅先ってだけで、移動費・入場料・歩き疲れのコストが上乗せされてる。

だから「もうここまで来たら、1200円ぐらい出しとけ」ってなる。「この場所でしか食べられない」「せっかく来たんだし」で財布が開く。

家のダッツは…?「せっかく来た」どころか、冷蔵庫の前でTシャツ短パンだぞ。

努力ゼロの贅沢には、人間なかなか寛容になれません。


日常VSイベント

人は「イベント」に金を使う時、財布の中の自分とスーパーでダッツに悩む自分が、全く別人格になってる。

いや、どっちも自分なんだけどな?脳のスイッチ一つで、贅沢警察と思い出バカが交互に現れる。

——というわけで、観光地パフェOK家ダッツNG現象、全部「脳のクセ」のせいです。

次章では、「体験に金を払うのに、日常の贅沢は値切りたい」

この日常コスパ脳の正体を、さらにえぐっていく。

「体験に払う金」と「日常を安く済ませたい本能」

さて、みんな「思い出」にはアホみたいに財布ゆるゆるなのに、日常の小さな贅沢にはガチ節約モード発動するのはなぜか。


旅先では「写真一枚」のために金を出せる

観光地で食べるパフェって、ぶっちゃけ「ストーリー代込み」なんだよな。写真撮ってインスタにあげて「今の私、キラキラしてる」ってやっと満足。

あれは体験という名のドラッグだ。

「高いよね〜」とか言いながら結局みんな頼む。なぜか?「ここでしか味わえない」というストーリー性を、脳みそが欲しがってる。


家ダッツはただの贅沢という難儀な存在

その一方で、スーパーでダッツを手に取ると、「これカゴに入れた瞬間からだらしない大人認定されるんじゃないか…」という謎の罪悪感と戦う羽目になる。

誰も見てないのに、自分監視カメラが発動。「贅沢は敵」みたいな昭和根性が急に浮上する。

…いや、普段100円のアイスしか買わない自分が、突然350円に手を出すときのハードルの高さよ。


「日常の出費」は冷静なコスパ脳でぶった斬る

日常に潜む贅沢は、「それ本当に必要か?」とすぐ審査が入る。体験や思い出には甘いくせに、普段使いには妙に厳しいこの内なるコスパ監査員。

しかも日常は繰り返すから、「毎回買ったら財布に痛い」っていう計算が働く。結果、年に一度の旅パフェはOK、でも月イチのダッツは「無理」判定。


財布のヒモだけじゃなく感情のヒモも場面ごとに調整してる

  • 旅先では「一生に一度」補正が発動
  • 日常では「また来週もある」現実主義が発動

どっちも同じ人間なのに、「体験」には甘々で、「日常」にはスパルタ。この矛盾こそ、人間のコスパ脳の正体。

次章では「じゃあ、ダッツを観光地で食えばいいんじゃね?」というアホみたいな逆転発想を本気で検証していく。

じゃあ、ダッツを観光地で食えば良くね?という無敵の逆転案

「非日常なら金を出すくせに、日常はケチる」――もうこのクセが直らないなら、いっそ日常を観光地化したらどうだ?


■ダッツ in 旅行カバン理論

例えばさ、横浜の山下公園ベンチでハーゲンダッツを食べる。

それだけで「今だけは旅人」という錯覚が発動。もはや350円のカップアイスが、青春の思い出に早変わりする。

「いや、今めっちゃ特別なことしてるじゃん」そうやって無理やり体験扱いすれば、ダッツ1個でも全然罪悪感ない。

要は日常を旅っぽく演出するだけで財布のひもが緩むって話。

焦げ団子

人間ちょろいな。


■でも現実はスーパーの冷凍庫の前

ところが実際は、「今月ちょっと使いすぎたし…」「また来週もあるし…」「一口で食い終わるし…」

…レジの前で98円アイスに手が伸びて終わり。どんだけ頭で理屈つけても、最後は日常の圧に負ける。

イベント化すれば何でも贅沢になれる?うん、それは理論上だけの話だ。

現実は「明日の自分に説教される未来」が怖すぎる。


■団子的まとめ:贅沢って、気分の問題

・「体験」に金を出すのは正当化しやすい
・「日常」に金を出すのは妙にハードルが上がる
・どっちも同じアイスなのに、人間の脳みそは面倒くさすぎる

結論:「観光地のパフェ」と「家ダッツ」、値札の数字よりも、食べる側の気分の値段が全て。

今日ダッツが高く感じたなら、それはあなたが日常の住人になってる証拠。もし安く感じた日がきたら、それは人生がちょっとだけ旅になった瞬間だ。

パフェでもダッツでも、食いたい時に食べろ。

焦げ団子

財布のヒモより、心のヒモの方がよっぽど複雑なんだから。

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